浄土宗 不軽山 荘厳院 香仙寺

二十六夜尊聖冏 繊月上人

酉蓮社了誉聖冏禅師

二十六夜尊

 

二十六夜尊 酉蓮社了誉上人聖冏禅師は常陸国岩瀬城で誕生されました。

幼名は文殊丸「頂骨高くそびえ、額に三日月の形あらわす」

額に三日月の形があったようで、後に「繊月上人」とも呼ばれるようになりました。

父は白石志摩守宗義(義満説もあり) 母は橘氏の娘と言われています。

北朝 暦應4年 南朝 興国2年(1341) 正月25日に南北朝の動乱のなか誕生されました。

文殊丸五歳の時にこの地で兵乱があり、父白石志摩守戦死し、城を追われ山林、民家に母と共に身を隠していました。八歳の時、母の薦めにより、浄土の先達瓜連常福寺の了實上人の元に入ることとなりました。 このとき了實上人は「夕べの夢に出た虚空蔵菩薩の再現」と喜んだと伝えられています。剃髪受戒の式を行い、聖冏と名付けられました。

すでに聡明さが現れており、「額の三日月は文殊菩薩の生まれ変わり」と伝記には記されています。

十一歳にて浄土宗のお経や解説した書籍の内容に対する疑問を提示するほどに成長し、

十五歳の時、了實上人の師、浄土宗五祖蓮勝上人の元に入り、十八歳にして蓮勝上人の兄弟子鎌倉光明寺三世定慧上人の元で学習を深めて行きます。

定慧上人への挙状には

「此聖冏なる僧智徳逸群なり。定めてこの化来乃人なるべし。愚下に於いて憚り多し。仰ぎ願わくは、尊下にして、指南あらば、末世の導師たらんもの乎。」

             干時延文三年                 太田蓮勝

定慧良誉上人

挙状をいただき、定慧上人の元に向かわれました。

この頃、定慧上人は鎌倉光明寺から桑原の道場に隠居しておりましたが、ある夜夢のなかに、「文殊大士白毛師子に乗し、左手に一巻の経をとり現れ給いて、告ての給はく、明日午前に東方より僧乃来るあるべし、即ち我が分身なり」夢からさめて門人に、今日、客僧来ることがあれば、直ちに案内せよと命じられ、ほどなく蓮勝上人の挙状をもった聖冏上人がこられ、聖告むなしからずを信じて、対面されました。

桑原道場にて六年間、浄土教のみならず、仏教学の広い範囲まで進み、二十五歳の時

相傳の宗義とともに戒脈である円頓戒、そして念仏の系譜として布薩戒を傳授されました。 これより先、聖冏上人は諸国兼学の旅とでて行きます。

関東では真源に天台宗・明哲と磐田寺の学園にて唯識と倶舎・真言密教は宥尊

関西では月庵宗光、月察天命に臨済宗 神道を宇都宮二荒山権禰宣治部大輔某に和歌を頓阿に学んだと、伝えらています。十三年間の兼学により、浄土宗義に対する強化と、仏教学としての浄土宗義、宗教観、他宗の教えとの対決と受容を修学し、師の了實上人の元に帰られました。

之より先、上人により浄土宗独立教団としての教線の拡大と教団の体制がつくられていくことになります。この当時、浄土宗は中国からの直接傳授が無いため 寓宗と呼ばれ、独立した宗派と見なされていませんでした。この独立性を確立したのが、聖冏上人なのです。また、上人は「お念仏」の教えは仏教全体の中でどの位置にあるのかを体系化し、浄土宗独自の展開を示し、当時、茨城に展開していた門徒宗に対しても教えの勝義を示しました。これにより、聖冏上人の教判は確立していくのです。

教判の確立により、「正しい教えの伝承」へとすすんでいきました。これが「五重相伝」です。浄土宗八祖 増上寺開山聖聡上人に明徳四年(1393)に「五重」を授与されたことが、浄土宗の相承、五重相伝の始まりといわれています。

現在、浄土宗寺院各地で行われている「五重相伝」はここから始まりました。また、僧侶も同じく、正しい浄土宗の相傳を確立されたのも、聖冏上人がおられたからこそと、思います。五重の伝法整備は、聖聡上人に受け継がれ、更なる発展を遂げていくのです。

五重の傳授から、程なく常陸瓜連にて戦乱がおこります。これにより瓜連は焦土となり常福寺も焼失してしまいました。聖冏上人はその身を阿弥陀山に移します。三窟があり、中に阿弥陀三尊の掘られた洞窟に、身をよせることとなりました。当時の伝記として、乾し柿、シイの実にて飢渇をしのぎ、岩窟からしみでる水で、墨をすり参考文献の無い中「決疑鈔直牒」十巻を撰述され、後に阿弥陀三窟は直牒洞と呼ばれるようになりました。

このことにより、聖冏上人の聡明さが計り知れないものと思われます。また、上人は常福寺復興の為にも、この地に居住されていたことと伺い知ることができます。後に、常福寺三世了智上人が十三回忌に際し、不軽山荘厳院香仙寺として上人の威徳を偲び一寺を建立されました。

戦乱後、佐竹氏より安堵状を賜り、常福寺の再建はなされましたが、高齢の上人を思い聖聡上人は小石川に庵をつくり、そこに聖冏上人を迎えられました。七十五歳の時と伝えられています。小石川の庵は、現在の傳通院となり、庵は宗慶寺といわれています。

庵にて応永二十七年九月二十七日 世寿八十にて遷化されました。

現在も尚、上人の威徳を偲び二十六夜尊というおまつりが開催されています。

生誕の地 岩瀬誕生寺九月二十六日 瓜連常福寺旧暦九月二十六日 二十七日

松栄香仙寺旧暦十月十六日 上人が残された功績は浄土宗にとって大きく、寓宗から浄土宗へと確立され、法然上人から伝わる念仏信仰の尊さを具現化された事が、後の徳川家康の帰依へとつながり現在の浄土宗の隆盛に、繋がっていったのです。
聖冏上人絵伝より
聖冏上人絵伝より

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